場所至上主義

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場所至上主義

これ非常に重要な考え方で「場所」が問題じゃねえんだよな。場所に囚われるとビルとか建造物に行ったり、自宅以外に居ることが重要だと考え始める。そうした「場所至上主義」のせいで2017年になっても満員電車はなくならないし、自宅で休養するという人生にとって重要な行為がないがしろにされてる

この「場所至上主義」は学歴主義や役職主義にも繋がってて、東大という場所に居た、あるいは部長の椅子に座っている、という事が重要だと見なされてるわけだ。だからこれだけ情報化が進んでいるにも関わらず「知識を得るために特定の場所に通う」とかいう頭の悪い行為が正当化される

人間は多様性があるから、殴られる方がいい子供とか、言葉で説明される方がいい子供とか、入りだけ教えて貰って自由にしたい子供とか、面白い者が散らばってる部屋に放置されたい子供とか、次々興味を引く物を10分ごとに与えられたい子供とか色々居るわけで

「パカスカ殴られたい子供を殴らず言葉で説明するのは虐待」というのが多様性を理解するという事ですよ。

そういう子供からしたら「何グダグダ喋っとるんや、悪いのは分かったからパカーン殴って終いにしろや、人をバカにしやがってクソが絶対に許さんぞ」と思いながらクソな説教を聞いてるわけです

だからそういう「殴られたい子供」はグダグダ言葉で説明する親や教師よりも、悪かったら「なにやっとんじゃ糞ボケェ!」って殴られて「これはいかん、わかったか? よし続けろ」で5秒で説教終わる奴に懐いて行くわけです。それで虐待とは何かというとコミュ障なんですよ

つまり指導というのは親にしろ教師にしろ「子供がどんな指導方法を望んでいるのか」を見抜いてやらんといかんわけです。言葉で説明して欲しい子には言葉で、暴力で片付けて欲しい子には暴力で、そういう柔軟性や子供1人1人の観察を怠けて「全部言葉」「全部暴力」これが虐待です

「全部言葉」「全部暴力」がどうして虐待に繋がるのかというと、これは子供の人格や性格を否定して、1つの指導方法でごり押ししようとしているからですね。

暴力は平気だけど言葉で長々と説明されることに非常に苦痛を感じる子供、言葉は平気だけど暴力に苦痛を感じる子、その個性を尊重すべきで

強く指導しなければいけない子には強く指導してやって、弱くてもいい子には弱く、それが善であって「誰でも殴られて一人前になるんじゃ!」で弱い子までボコボコにするのも「こんだけ言っても分からん奴はどうしようもない」で鈍い子の指導を放棄するのも、どちらもクソ教育でしかない

つまり指導というのは常にコミュニケートが無ければいけないんですよ。相手には人格があり、好みの指導方法や、効果的な接し方がある。それを無視して「相手を無視して自分のやり方を押し付けて行く」これが虐待なんであって、それが言葉であろうが暴力であろうが、そこはどうでも良い

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